「出雲の民窯 出西窯」民藝の師父たちに導かれて六十五年 著:多々納弘光

  • 2019.08.18 Sunday
  • 11:44
評価:
多々納 弘光
ダイヤモンド社
(2013-03-01)
コメント: 今まで民芸を牽引してきた思想家(つまり柳宗悦)や、作家たち(河井寛次郎など)の書物は読んだことがあったが、新作民芸を創り出してきた工房側の著作を読んだことがなく、違う視点から民芸運動を知られてとても興奮した。また文章が読みやすく、多々納さんの謙虚で真摯なお人柄が出ていてぜひおすすめしたい一冊。

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 今まで民芸を牽引してきた思想家(つまり柳宗悦)や、作家たち(河井寛次郎など)の書物は読んだことがあったが、新作民芸を創り出してきた工房側の著作を読んだことがなく、違う視点から民芸運動を知られてとても興奮した。また文章が読みやすく、多々納さんの謙虚で真摯なお人柄が出ていてぜひおすすめしたい一冊。

 出西窯と言えばとても有名な窯だが、まったく作陶などしたことのなかった五人の若者が戦後はじめた、とても新しい窯だということを知り驚いた。さらりと書かれているが多くのご苦労があったことだろうと思う。

 出西窯を直接的に指導した河井寛次郎と濱田庄司のエピソードは興味深い。二人の作陶への思いや人柄がよくあらわれている。この切り出し方をできる多々納氏のセンスの良さと人柄の良さもあると思う。この対称的な二人が、お互いをとても信頼していたのだなと思わせるエピソードも出てきてファンの心をくすぐるので、くわしくは読んでください。

 そしてやはり、山陰地方のことですので、吉田璋也の仕事についてかなり触れられている。吉田璋也についてのエピソードも数多く面白いのだが、吉田が「柳先生は初めから美しいものがわかった方だったけれども、誰もそんなもんじゃないよ」と言い、本人も最初は分からなかったが、たくさん物をみているうちにわかるようになったといったという話が個人的にとても好きだ。多々納氏も最初は分からなかったというから、もしかしたら私のような人間にもよく見ていけばそのうち目が養われるのかもしれないという希望を抱いた。

 この他にも吉田の柳宗悦への心酔ぶりがよく伝わってくる話が多いので興味深い。また、柳宗悦の両腕とも言える吉田璋也、外村吉之介の対称的な性格も少し見えて、これも興味深い。

 0からはじめて、柳の民芸の思想にも深く共感し、共同体としてもしっかり機能し、確実に成果を出していく出西窯への柳の期待は大きかったようで、晩年のバーナード・リーチに、出西窯へ来るよう強く要請した旨が綴られている。これが実現していたらまた山陰の民芸、陶器文化はまた違っていたかもしれないと思った。

 この本は多々納弘光さんのお話の聞き取りなのだが、構成者の藍野裕之氏は表紙に一切お名前を出さず(こういった場合、著者としてクレジットになっていることも多い)、藍野氏にまで無私、一工人としての姿勢があり感銘を受けた。

 

与謝野晶子は女子にモテるタイプ

  • 2018.04.17 Tuesday
  • 22:38

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 先週末、与謝野晶子記念館に行った時には全く与謝野晶子の知識なく行ってしまったので、再訪前に少しは勉強しようと、いくつか彼女の作品を読んでみた。
 詩などとは無縁で、良し悪しもよくわからないから、的外れなことを言っているかもしれないが、ともかくこの今のファーストインプレッションのパッションっていうか、この、なんていうの、出会ったばかりのみずみずしい感動を記しておいて記憶に残しておきたいので、は〜んこいつ分かってねえな、ていうのも多々あるかと思うがお目こぼしいただきたい。

 

 「みだれ髪」の歌はとてもロマンチックである意味少女趣味的でありながら、美しいエロティシズムを内包して、この時代には秘めて語られることのなかった女性の性と愛をはっきりと、美しく描き出し、今読んでも鮮烈かつ宝石のようにきらきらとしている。

 今読んだ私が、あ〜なんてみずみずしい、新しい歌だろうと思うくらいなので、当時の女性たちがこれを読んでいかに感動し、解き放たれ、快哉を叫んだか、想像に難くない。晶子の歌は強く、美しい。これに憧れない女性がいるだろうか。もう、私がこの時代に生きていたら惚れる自信がある。歌劇のトップスターみたいなものである。こんなに強く、かっこよいのに、この人は確かに女性で、どこまでも美しい世界を私に見せてくれる。よし、ついていこう。

 私の祖母は幼いころに与謝野晶子を見たことがあるというのが自慢で、晩年までよく話していたそうだ。祖母は堺出身で、堺の人は与謝野晶子が好き、というのはあるにしても、当時の女の子たちにとって、与謝野晶子はあこがれの女性像でもあったのではないだろうか。

 実際、当時「新しい女」という枠組みで特集されたりしているようだし(ウィキで得た付け焼刃知識)、晶子のパリ行きの時にはのちに論争をしたりもする平塚らいてうも見送りに来たようだし(ウィキで以下略)、進歩的な女性として、その割に美しい詩世界を持つ作家として、女性の憧れを一身に背負っていたと思う。


 また彼女にとってエポックメイキングで有名な詩というと、「君死にたまふことなかれ」と青鞜創刊に寄せた「そぞろごと」があるかと思うが、これらは非常に思想的な詩でありながら、人間の感情に寄り添って感動的である。この二、三の作品を読んだだけの今の私には、彼女の思想をどうこう論ずることはできないが、これらの思想的作品にも彼女の美しい世界は十分に展開されていると感じた。

 

 そして、与謝野晶子の思想と言えば、そう、母性保護論争である。

 て書いたけど実はよく知らない。女性史のなにかのテキストを読んだ時に書いてあったなって。

 なのでネットで検索してみた。

古典を読む:母性保護論争−晶子とらいてう

 いくじ連のこの記事が両論併記して分かりやすかった。

 要は、らいてうが「社会(国家)が子供のための教育費を支給せよ」と主張するのに対し、晶子は「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」とし、女性の経済的自立の必要性を説いたということらしい。詳しくは上のリンク先を見てほしい。らいてうの言うことにも一理あるが、晶子の言うことの先進性もよく分かった。

 この記事に一つ私が思ったことを付け加えるとするならば、晶子は国家に対する不信がずっとあって、国家に子供の養育を預けてしまうことに対する大きな不安があったのではないかと思う。
 晶子は反戦主義というよりは厭戦、その主張も必ずしも一貫したものではなかったそうだが、少なくとも当時の政府を信じるに足るものとは思っていなかったのではないか。国家に子供の養育を負わせることで、国家からの見返りを要求されることを懸念したのではないか。
 晶子が言いたかったのは、経済的に自立できない女は子供を産むなということではなくて(まあそう言ってしまっているようだが)、国家や男に養育を頼ることで、女は自己決定権を失うのみならず、さらには子どもの未来・人生まで国家や男に自由に使わせてしまうことになるという懸念があったのだと思う。
 ヴァージニア・ウルフが「自分だけの部屋」で主張した「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」に近い思想がそこにはあると思う。

 しかし、晶子はどうもドアに鍵のかかる部屋は持っていなかったようだ。ということも与謝野晶子記念館に行けば分かるので、みなさんぜひ行ってみてね。

 

「織田作之助作品集〈第2巻〉」織田作之助

  • 2018.03.01 Thursday
  • 00:32
評価:
織田 作之助
沖積舎
¥ 2,484
(2009-08)
コメント:織田作の円熟期に差し掛かる頃の作品をおさめている。同時に戦時中の言論統制のせいでかきたいものもかけず時代小説に転向していた時期のものも収められており、これらを時系列で読むのは意義深いと思う。

JUGEMテーマ:小説全般

 こうやって時系列順に読むと見えてくるものも多い。特に織田作之助の文学が円熟へと向かうちょうどこの時期に、戦中の言論統制で時代小説に転向せざるを得なかったことを、一読者として改めて悔しく思った。またこの時代小説の出来がよいのである。この時代に、もっと書きたいように書けていたらどんな素晴らしい作品があったかと思うと忸怩たる思いがする。

 

 いくつかの作品をピックアップし、感想を書きたい。

 

勧善懲悪

 ここまで俗悪な人物を語り部にすえて、ちゃんと読ませるというのはなかなか余人にはできぬ芸当だと思う。市井の人を描くのがうまいとかいうよくあることばでは言い表しきれない、織田作のひとつの到達点がここにあると思う。

 

 時代小説のなかでは、かなり普段の織田作の作風を引きずっている作品である。でもやはり全体的にはおとなしいというか、人間のどうしようもなさを表現する時の表現幅が織田作にしては小さくまとまっている感じはある。が、逆にそれが作品として美しい。これを単体で読むと「織田作の時代小説もいいじゃん」と思うのだが、戦前・戦後の作品と並べると表現者織田作の感じている窮屈さがはっきりと見えて、とても悲しい。

 

世相

 まあ、はっきり言ってこれが書きたかったの。

 志賀直哉に酷評されたといわれるのがこの作品である。

 語り部である作家(オダサク)が小説の題材を探すという設定の中で、さまざまな人物を描いていく一種のオムニバス方式であるのだが、なかなか他で見かけたことのない手法であると思う。同時に織田作の私小説的な性格も持ち合わせており、戦中自分の作品が検閲に引っかかり続けて書きたいものを書けなかった時期のこと、戦後この作品を書いている時の開放感なども書き、それでいて自身の小説に限界を感じていることを記したり、時代の転換期にあって、自身の作品の旧態を嘆いている。

 

 前半はいっそわざとらしいほどに俗悪に女性をあけすけに描写する。官能小説のようなドキドキする表現でもなく、ただひたすらどぎつい表現が続く。「ここまで書いてしまえる自分」を誇っているような印象も受け、志賀の「汚らしい」という評も、まあ、分からないでもない。

 ただ、ここで時系列順に読んでいることが効いてくるのであるが、この作品は長い戦中の言論統制の時代を超えて、やっと思うがままに書けるようになった転換期に発表されており、その開放感、何を書いてもよいということを大いに満喫し、確認し、読者にも示すためのものではなかったかと思うと、このちょっとやりすぎなほどのどぎつさも、なるほど必要だったかなと思ったりする。

 後半になると、この作品を書いた戦後すぐの時代の、焼け出された大阪の人々をまざまざと描きだして、その筆致は圧倒的である。途中に阿部定事件の描写を入れ、最後には男に性的に消費されつつも清く生きる女性を描いて終わる。前半のどぎつさはこれで完全に昇華されると思う。

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